私はもっと明るい家が好きだ。もっと奇麗(きれい)な家にも住みたい。私の書斎の壁は落ちてるし、天井(てんじょう)は雨洩(あまも)りのシミがあって、随分穢(きたな)いが、別に天井を見て行って呉(く)れる人もないから、此儘(このまま)にして置く。何しろ畳の無い板敷である。板の間から風が吹き込んで冬などは堪(たま)らぬ。光線の工合(ぐあい)も悪い。此上に坐(すわ)って読んだり書いたりするのは辛(つら)いが、気にし出すと切りが無いから、関(かま)わずに置く。此間或る人が来て、天井を張る紙を上げましょうと云って呉れたが、御免(ごめん)を蒙(こうむ)った。別に私がこんな家が好きで、こんな暗い、穢(きたな)い家に住んで居るのではない。余儀なくされて居るまでである。
娯楽と云うような物には別に要求もない。玉突は知らぬし、囲碁(いご)も将棊(しょうぎ)も何も知らぬ。芝居は此頃何かの行掛り上から少し見た事は見たが、自然と頭の下るような心持で見られる芝居は一つも無かった。面白いとは勿論(もちろん)思わぬ。音楽も同様である。西洋音楽のいいのを聞いたら如何(どう)か知らぬが、私は今までそう云う西洋音楽を聞いた事の無い為(せい)か、未(ま)だ一度も良い書画を見る位の心持さえ起した事は無い。日本音楽などは尚更(なおさら)詰らぬものだと思う。只(ただ)謡曲丈(だ)けはやって居る。足掛六七年になるが、これも怠(なま)けて居るから、どれ程の上達もして居ない。下(しも)がかりの宝生で、先生は宝生新氏である。尤(もっと)も私は芸術のつもりでやって居るのではなく、半分運動のつもりで唸(うな)るまでの事である。
書画だけには多少の自信はある。敢(あえ)て造詣(ぞうけい)が深いというのでは無いが、いい書画を見た時許(ばか)りは、自然と頭が下るような心持がする。人に頼まれて書を書く事もあるが、自己流で、別に手習いをした事は無い。真(ほんと)の恥を書くのである。骨董(こっとう)も好きであるが所謂(いわゆる)骨董いじりではない。第一金が許さぬ。自分の懐都合(ふところつごう)のいい物を集めるので、智識は悉無(しつむ)である。どこの産だとか、時価はどの位だとか、そんな事は一切知らぬ。然し自分の気に入らぬ物なら、何万円の高価な物でも御免(ごめん)を蒙(こうむ)る。
明窓浄机(めいそうじょうき)。これが私の趣味であろう。閑適を愛するのである。
小さくなって懐手(ふところで)して暮したい。明るいのが良い。暖かいのが良い。
性質は神経過敏の方である。物事に対して激しく感動するので困る。そうかと思うと、又神経遅鈍な処もある。意志が強くて押える力のある為めと云うのでは無かろう。全く神経の感じの鈍い処が何処(どこ)かにあるらしい。
物事に対する愛憎(あいぞう)は多い方である。手廻りの道具でも気に入ったの、嫌(きら)いなのが多いし、人でも言葉つき、態度、仕事の遣(や)り口(くち)などで好きな人と嫌いな人がある。どんなのが好きで、どんなのが嫌いかと云う事は、何(いず)れ又記す機会があろうと思う。
朝は七時過ぎ起床。夜は十一時前後に寝るのが普通である。昼食後一時間位、転寝(うたたね)をする事があるが、これをすると頭の工合(ぐあい)の大変よいように思う。出不精(でぶしょう)の方で余り出掛けぬが、時々散歩はする。俗用で外出を已(や)むなくされる事も、偶(たま)には無いではない。人を訪問に出る事はあるが、年始とか盆とかの廻礼などは絶対にしない。又する必要はないと考えて居る。
執筆する時間は別にきまりが無い。朝の事もあるし、午後や晩の事もある。新聞の小説は毎日一回ずつ書く。書き溜(た)めて置くと、どうもよく出来ぬ。矢張(やはり)一日一回で筆を止めて、後は明日まで頭を休めて置いた方が、よく出来そうに思う。一気呵成(いっきかせい)と云うような書方はしない。一回書くのに大抵三四時間もかかる。然し時に依ると、朝から夜までかかって、それでも一回の出来上らぬ事もある。時間が十分にあると思うと、矢張長時間かかる。午前中きり時間が無いと思ってかかる時には、又其の切り詰めた時間で出来る。
障子(しょうじ)に日影の射した処で書くのが一番いいが、此家ではそんな事が出来ぬから、時に日の当る縁側(えんがわ)に机を持ち出して、頭から日光を浴びながら筆を取る事もある。余り暑くなると、麦藁帽子(むぎわらぼうし)を被(かぶ)って書くような事もある。こうして書くと、よく出来るようである。凡(すべ)て明るい処がよい。
原稿紙は十九字詰十行の洋罫紙(ようけいし)で、輪廓(りんかく)は橋口五葉君に画いて貰ったのを春陽堂に頼んで刷らせて居る。十九字詰にしたのは、此原稿紙を拵(こし)らえた時に、新聞が十九字詰であったからである。用筆は最初Gの金ペンを用いた。五六年も用いたろう。其後万年筆にした。今用いて居る万年筆は二代目のでオノトである。別にこれがいいと思って使って居るのでも何でも無い。丸善の内田魯庵君に貰ったから、使って居るまでである。筆で原稿を書いた事は、未(ま)だ一度もない。 来源: